「サラエボ」と聞いたとき、何を思い浮かべるだろうか。今まで私はサラエボと聞いたとき、「絶望的な何か」を思い浮かべていた。ヨーロッパの火薬庫と呼ばれたバルカン半島に位置し、1914年第1次世界大戦のきっかけになったサラエボ事件と、1990年代のユーゴスラビア解体に伴うサラエボ紛争に拠るところが大きいだろう。
歴史を勉強していく中で(もともと日本史が大好き)、1914年のサラエボ事件はもちろん知っていたし、ある意味「現代ヨーロッパの始まりの事件」が発生したこの場所は私の絶対行きたいリストに常に入っていた。
結果から言って、今回の旅行を通してサラエボが、そしてボスニアヘルツェゴビナのことが大好きになった。今まで、ポーランド旅行が自分の中でトップに位置していたが、それに匹敵する良さであった。
人々の優しさや温かさ、歴史への向き合う姿勢、文化の独特さ、驚き、都市としての魅力、おいしい料理、物価の安さ等々、ヨーロッパを散々旅行してきたが、今回のサラエボ旅行は非常に楽しかったし、充実していた。
我ながら秀逸だったのは、帰りのトランジットをウイーンにして、
最後の半日にウイーン観光ができたこと。これによって、
ハプスブルク家の栄枯盛衰を鮮烈に感じることができたのもよかった。
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1984年冬季オリンピック開催、しかしその数年後には泥沼の紛争勃発 |
◎概要
今回はサラエボ中心に2泊3日。サラエボにはバルセロナから直行便がないので、途中ドイツかオーストリアで乗り換えが必要。
ドイツはフランクフルトにせよ、ミュンヘンにせよハブ空港なのでわかるが、意外にもオーストリアから東欧への便が充実しているのが面白い。
ハプスブルク家の支配下であった地域には今でも影響が強いということなのか。
1日目:バルセロナからミュンヘン経由でサラエボへ。昼過ぎ到着。その後観光。
2日目:サラエボ観光
3日目:早朝便でウイーンへ。ウイーン半日観光。
サラエボ空港から市内まではバスが発着している
(地球の歩き方に記載あり)。こちらは5マルク(大体2マルクが1ユーロ)。
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空港はこんな感じ。日本の地方空港と同じくらいの規模感。 |
しかしバスはあまり頻発には出ていない時間もあるので、その際はタクシーを。早朝、私のホテル(旧市街地、ラテン橋近くの「
ホテルオールドタウン」)から22マルクだった。
あと正直、サラエボ観光の情報はあまり有用なものがなかった。
そんな中でも今回役に立った情報はこちら。
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サラエボ観光でしたい15のこと
・
サラエボグルメを堪能、おすすめ17選
・
地球の歩き方(中欧)
◎サラエボでの過ごし方
ボスニアってよくわからん国だし、サラエボもなんか治安悪そうだなーとかなり身構えていったが、特に
治安面では怖い思いや犯罪に巻き込まれることはなかった。
そもそもサラエボではどうやって過ごすのか、を書いていこうと思う。
①Sarajevo Meeting of Cultures
サラエボという街の最も面白い点は、
「文化の融合」である。こっちにモスク、あっちにキリスト教会、そっちにトルコ風建造物といった具合に、西洋東洋の文化が思いっきりMixされている。そんな中の街歩きは新しいことの連続で最高に楽しい!
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Sarajevo Meeting of Cultures |
面白かったのがこのラインで、本当に向こう側に行くと東洋的な建物が広がっていて、こっち側に来ると西洋的な商店街になっていてといった感じで、今までにいったどの都市にもない、文化の融合が見られた。
(東洋的な街並み)
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旧市街地の中心、セビリ(水飲み場) |
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サラエボは銅加工の職人が多くいる |
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この通りは金属加工職人が軒を連ねる |
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夜のセビリ |
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モスク |
(西洋的な街並み)
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キリスト教会 |
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サラエボのショッピングモール |
②歴史を感じる
さて、サラエボを語る上での大切になってくるのは1914年の「
サラエボ事件」と1990年代ユーゴスラビア解体に伴う紛争のうち「
サラエボ紛争」。
もともと、このあたり(バルカン半島)は非常に多くの民族、宗教、文字が存在して、戦争の火種となりうることが非常に多くあった。「
ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていたほど。
そんな中でまずは前者。
当時サラエボを支配していたのはオーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルク家)。以下の写真の通り、東ヨーロッパの大部分を支配していた。
ちなみに、スペインのハプスブルク家による支配は
こちらの記事参照。
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現在のオーストリア、チェコ、スロバキア、クロアチア、スロベニア、ボスニアヘルツェゴビナ、ハンガリー、ポーランドの一部あたりでしょうかね。 |
この帝国の支配に抵抗したセルビア人青年が、サラエボを訪問していた当時の皇太子フランツ・フェルデナンドと妻のソフィーが馬車で移動しているところを銃で暗殺。
ブチ切れたオーストリアはセルビアに宣戦布告、その後オーストリア・ドイツ軍とセルビアを支援したロシア・イギリス・フランス軍によって第1次世界大戦が勃発する。
第1次世界大戦が色々現在まで禍根を残していることを考えると、サラエボは現代ヨーロッパ史の始まりの地なのかなーと個人的には思っている。
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暗殺現場の前にあるラテン橋 |
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ちょうどこのあたりが暗殺現場か |
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暗殺に使用された拳銃 |
さて、サラエボの歴史2つ目は「サラエボ紛争」。
これは結構複雑なので、ざっくり。
この人の記事を事前に読んでいった。
まず、1918年第一次世界大戦が終結してハプスブルク家の支配が終わり、ごちゃごちゃっとしている時、このバルカン半島にユーゴスラビアという大きな国ができた。前述の通り、このバルカン半島は人種も宗教も、言葉さえも複数存在する複雑な環境。
そんな、難しい国のかじ取りを行ったのが、
チトー。
まあ、とにかく彼がめちゃくちゃカリスマだったみたいで、ユーゴスラビアは1980年までどうにかこうにかやってきていた。しかし、1980年にチトーが死去すると状況は一変。徐々に国の求心力は落ちていき、また80年代後半になると社会主義の親玉的な存在のソ連さえも弱体化する有様。
そうなってくると、ユーゴの国々はやっぱ民族や宗教によって独立したいと、1991年ごろから各国の独立が始まる。
ただ、ボスニアは少し複雑で国内に、ボスニア人(イスラム)、セルビア人(正教)、クロアチア人(カトリック)が混在。独立に際して、それぞれがそれぞれに主導権を握られまいと対立した。
特にボスニア人は孤立してしまい、4年間にもわたって「
サラエボ包囲」が行われた。行ってみてわかったが、サラエボは盆地のためおそらく容易に包囲されてしまったのだろう。
日本史の兵糧攻めみたいな感じで、食料、ガス、水道なども封鎖されたのだとか。90年代にこれら文明の利器が使えない生活は相当きついと思う。
また、市内にある
スナイパー通りといわれるところは、ビルからいつ何時セルビア人兵士が発砲してくるかわからず、
道路の横断すらも常に命がけだったらしい。
自分が生まれた時代にこんな状態が起きていたなんて衝撃であった。
そして、行ってみて個人的に一番衝撃的だったのは、1984年の
サラエボオリンピックスタジアムのまさに横にこの紛争の被害者の墓地が広がっていたこと。
国内、海外含めて色々旅行してきたが、「マジかよ・・・」と言葉を失ったのは初めてだった。
オリンピックスタジアムと墓地の悲しすぎるコントラスト、そして1984年にオリンピックでサラエボ包囲が1992年からというわずか8年間でこの違いかと、本当に絶句した。
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オリンピックスタジアムの真横に広がる墓地に言葉を失った・・・ |
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今でも銃痕が残るビル |
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スナイパー通り |
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サラエボ・ローズ=内紛中に砲弾によって被害があったところを赤く色づけして残している |
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サラエボ・ローズ その2 |
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永遠の炎 |
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紛争中、ジャーナリストはこのHoliday Innに宿泊していた |
③グルメを楽しむ
非常に大変な歴史を歩んできたボスニアだが、料理は非常においしい。サラエボにはいいカフェやレストランも多く、またシーシャ(水たばこ)も低価格でできるので、グルメを楽しみつつ、カフェでまったりという過ごし方ができるのも魅力。
おすすめのカフェ
→Teahouse Džirlo(ボスニアコーヒーが味わえる、以下の写真)
おすすめのレストラン
→Nanina Kuhinja(味はいいが、若干高い)
→Ćevabdžinica Željo(チェヴァプチチというパンにソーセージを挟んだファストフードが名物)
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ボスニアコーヒー、美味! |
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写真がちょっとあれですが、味はとてもいい。チェヴァプチチ。 |
④その他の観光地へ行く
歴史にも関係するが、サラエボには
紛争や人類の悲劇に関する博物館がいくつかある。あえて写真は載せないが、行ってみて損はないし、生きてるありがたみを実感できると思う。
それと市庁舎は内装がとてもきれいで、かなり意外だった。笑
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やはりここにも墓地が |
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色々な歴史的な困難を越えて、今は発展を遂げようとしている |
ボスニアもポーランドもそうだが、色々と歴史的な受難がありながら、それを乗り越えて発展に向かっている姿は非常に心を打つものがある。
サラエボは人も優しいし、食べ物もおいしいし、物価もリーズナブルだし、今回の旅を通して大好きになった。
◎ちょっとだけウイーン編
さて、ある意味サラエボの不幸の遠因になったハプスブルク家の本拠地ウイーンへ。乗り継ぎのため自由時間は5時間程度。
ウイーンへは8年ぶり3回目。おおむね観光ポイントは押さえていたので、今回は王宮と美術史博物館のみに絞って訪問。
ちなみに1回目のウイーンは初めての欧州旅行でちょうど12年前の今日だったらしい、2回目は初めての一人欧州旅行で8年前の冬。お察しの通り、
オーストリア・ウイーンは大好きである。
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ウイーンの街並みはやはりいいね |
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王宮 |
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美術史博物館。ハプスブルク家のコレクション |
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The ハプスブルク顔ですな |
今回は、割とがっつり世界史も勉強して、ハプスブルク家との絵画の関係性も勉強していったので、今までで一番ウイーンのすごさとハプスブルク家のすごさを実感できた。
こんだけ栄華を極めてたのに、サラエボでは皇太子が暗殺されて、第1次世界大戦後には衰退していってという流れを実感できたこの旅は、今までの旅行でもトップクラスの充実感だった。
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好きです、サラエボ。サッカー代表のユニフォームとジャージ上下を買ってしまった。安かったんだもの。 |
ではでは。